【講演レポート】前編|「正しい情報」だけでは人は動かない —“医療の翻訳家”市川衛さんが語る、インフォデミック時代の課題

みなさん、こんにちは。GENOVA広報担当です。
今回は、メディカルドック編集部の社内研修として開催した特別講演の様子をお届けします。
講師としてお招きしたのは、“医療の翻訳家”として活動されている市川衛さん。
NHK『ためしてガッテン!』や『NHKスペシャル』など数々の医療・健康番組を手がけ、現在は武蔵大学社会学部准教授としても活躍されています。
講演テーマは、
「医療の翻訳とは何か ~インフォデミック時代における情報戦略~」
情報があふれる時代において、「正しい情報を、どうすれば本当に“伝わる形”で届けられるのか」。
医療メディアに携わる私たちにとって非常に示唆に富む内容となりました。
本記事では、講演の中から特に印象的だったポイントを前編・後編に分けてレポートします。
前編では、「医療の翻訳」という考え方と、インフォデミック時代における情報発信の課題についてご紹介します。

市川衛さんプロフィール
2000年 東京⼤学医学部健康科学看護学科卒業
2001年 NHK⼊局/チーフディレクターとして
「ためしてガッテン」「NHKスペシャル」を担当
2016年 スタンフォード⼤学客員研究員
(⼀社)メディカルジャーナリズム勉強会設⽴
2019年 Yahoo!個⼈オーサー特別賞
2020年 広島⼤学医学部客員准教授(公衆衛⽣)
2025年 武蔵⼤学社会学部メディア社会学科准教授
「伝える」ではなく、「伝わる」を考える
講演冒頭、市川さんは自身の原点についてこう語ります。
「番組を見てくださった方の生活が、1ミリでも良くなる情報を届ける」
これは、かつて市川さんが携わっていた番組『ためしてガッテン!』で大切なミッション(使命)とされていたものなんだそうです。
市川さんは当時、演出デスクとして番組制作に関わっていました。収録直前に台本を渡すと、志の輔さんからこう言われることもあったといいます。
「これ、本当に視聴者に伝わると思ってるのか?」
そこから収録までのわずか2時間で、番組の構成を丸ごと組み立てなおす ーそんな経験を何度も繰り返したそうです。
医療情報を届けるうえで大切なのは、「正しく伝えること」と、「受け手に不利益を与えないこと」の両立です。
どれほど医学的に正しい情報であっても、伝わり方を誤れば、人を不安にさせたり、誤解を生んだり、時には行動を間違った方向へ導いてしまうこともあります。
だからこそ重要なのは、
「伝える」ではなく、「伝わる」まで設計する。
という視点で情報を設計すること。
市川さんは、NHK時代の経験を通じて、その重要性を徹底的に学んだと語りました。
医療現場にある「情報の非対称性」
講演では、「情報の非対称性」というキーワードも紹介されました。
医療者は専門知識を持っていますが、患者さんは必ずしもそうではありません。
たとえば医療従事者には当たり前の言葉でも、一般の生活者にとっては難解な専門用語に感じられることがあります。
その結果、
-
医療者は「説明したつもり」
-
患者さんは「理解できなかった」
というすれ違いが生まれてしまう。
市川さんは、こうした構造そのものが、医療コミュニケーションの難しさにつながっていると説明しました。

専門家ほど陥りやすい「知識の呪い」
医療者は、長年の学習と経験を通じて膨大な専門知識を身につけています。
しかし、その“知っている状態”に慣れすぎると、「知らない人の感覚」が分からなくなる。
市川さんはこれを「知識の呪い」と表現しました。
たとえば医療従事者にとって当たり前の「胃瘻(いろう)」という言葉も、一般の患者さんからすれば、「“いろう”って何?」というレベルの理解しかない場合もあります。
一度知ってしまったことは、「知らなかった頃の自分」を想像できなくなる。
これが、専門家と生活者の間に大きな断絶を生むのです。
そして市川さんは、この断絶に橋を架ける行為こそが、「医療の翻訳」だと語りました。
コロナ禍で加速した「インフォデミック」
講演の中盤、市川さんはWHOが新型コロナ流行時に提唱した「インフォデミック」という概念について解説しました。
インフォデミックとは、
「誤情報を含む“情報そのもの”が多すぎる状態」
のこと。
重要なのは、「間違った情報だけ」が問題なのではないという点です。
正しい情報も、誤った情報も、専門家の見解も、SNS投稿も、すべてが同じタイムラインに流れ込んでくる。
その結果、受け手は「何を信じればいいか分からない状態」に陥ります。
市川さんは、この状況を“砂漠”に例えました。
かつては「砂浜に落ちた危険なゴミ(誤情報)」を拾えばよかった。しかし今は、広大な砂漠の砂粒すべてが情報になっている。
つまり、
「間違った情報だけを排除する」
という従来の戦略だけでは、もはや対応しきれない時代になりつつあるのではというのです。
「正しい情報」が逆効果になることもある
講演の中でも特に印象的だったのが、ワクチン啓発に関する研究紹介でした。
米国の小児科学誌『Pediatrics』に掲載された研究では、「ワクチンを打ちたくない」と考える親に対し、
-
科学的データ
-
体験談
-
ショッキングな写真
など、さまざまなアプローチを試しましたが結果は衝撃的でした。
「どの方法でも、接種意欲は有意に向上しなかった」
さらに、一部では逆効果まで起きたのです。
例えば、もともとワクチンの接種に対して反発が強かった人ほど、
「やっぱりワクチンは危険だ」と、より強固に信念を強めてしまった。
これは「バックファイア効果」と呼ばれます。
また、怖い症例写真や体験談も、「病気が怖い」ではなく、「ワクチンそのものが怖い」という印象につながってしまうことがあるそうです。
つまり、“正しい情報”であれば、人は納得するわけではない。
これが、インフォデミック時代における情報発信の難しさなのです。
「医療の翻訳」に必要なのは、“伝え方”の設計
市川さんは講演を通じて、繰り返し「受け手目線」の重要性を強調しました。
専門知識をそのまま届けるだけでは、人は動かない。
-
どう受け取られるか
-
どんな感情が動くか
-
どんな行動につながるか
まで設計する必要がある。
それが、“医療の翻訳”という考え方です。
では、情報があふれる時代において、私たちは一体どのように医療情報を届ければいいのでしょうか。
後編では、市川さんがNHK時代から実践してきた「人を動かす情報設計」の考え方や、医療メディアに求められる“受け手目線”のコミュニケーションについてご紹介します。
また、医療広告ガイドライン時代における「伝わる表現」の工夫や、AI時代だからこそ人間に求められる役割についても掘り下げていきます。
(後編へ続く)
PREV